diary 2003.04



■2003.04.01 火 (何かと2周年記念日)

 元旦よりは4月1日の方が何となく1年の節目だな、という実感がある。これは職場の周期が常に年度で動いているので、それに自分の生活も引きずられての事。まぁ学校に通っていた時もそれは同じだった。自分の身の置き所に大きな変化が起きる時、というのが大抵4月1日で、それにすっかり馴染んでしまっているのだ。
 あと、冬の真っ只中の元旦とは違って、この日は「季節の変わり目」という明らかな節目も持っている。やはりこちらの方が節目らしい節目、これから新しい何かが始まる節目、という感じがする。カレンダーの1年は元旦から始まるけれど、自分の1年の生活のサイクルは、確かに今日この日から始まったのだ。
 とはいえ、それほど大きな変化も無く新年度は始まる。よくこの場に書いている自分の職場のことについて少し補足しておくと、自分が所属するセクションの編成は、昨年度までは定員9人だったのが、1人減って正式に8人態勢となった。だが、1名欠員になっているので、実際に配属されているのは7人。
 その8名の定員の中、1人をセクションの長として、その下で部門が2つに分かれている。うち5人が現場部門で、外回り専属の常時出張組。残り2人がその出張組を動かしたり、仕事の計画だとか対外折衝だとか他の事務仕事を行う編成になっている。
 で、自分は後者の事務を行う方なのだが、定員2人に対して配属されているのは自分ひとり。昨日まではその定員も3人だったが、今年度から2人になってしまった。つまり、その減らされた定員の1名も、欠員の1名も、自分の前後に位置するはずの人員なのだ。傍目にはかなり辛そうな状況。でも、元々ずっと1人でやってこれていたので、それでも大きな問題も出ずやれている。という事で、実質は何も変わらない新年度のスタートとなる。

 年度当初は現場部門が閑期になっているので、事務所に残っているその方々が、何かとパタパタしているこちらの仕事に積極的に手を貸してくれる。こちらもありがたく仕事をガンガン回す。でも、人手が2人、3人となったところで、同じ時間で片付く仕事の量が2倍、3倍となる訳ではない。むしろ、決してそうはならない。逆の場合すらある。
 これはもう丸2年ひとりだけで同じ仕事を、このセクションの開設当初から続けている…という事の「負」の部分だろう。仕事のサイクルも、使用するソフトウェア等のツールも、仕事の手順も、今は全てが「自分専用」、自分にとってやりやすい形のみを追求している状態だ。でも、その形が他人にとってもやりやすいか、といえばそうではない。
 「何か手伝うことあるー?」 「じゃあ、この書類作って。様式はこのパソコンのどこどこに入ってるから」 「じゃあ、その様式このフロッピーにちょうだい」 「いや、そっちのパソコンからオンラインで引っ張れるから」 「…へ?」
 という状態になって相手が混乱してしまう事もある。その場合こちらは手をとめて、相手にまずこの事務所のパソコンがネットワークで結ばれている、というその事からまず説明する必要がある。
 それに、そうして引き出した様式が「一太郎」で作成したもので、相手は「WORD」しか使った事がない、という事もあったりする。その場合もまずは「WORD」と「一太郎」との違いの説明から。または、新たに「WORD」で作成してもらう事になる。

 なので、手伝ってもらうことで必ずしも自分の仕事が早く片付く、という訳でもないけれど、その事の価値は仕事の効率などとは別のところにあるようで。
 何人かが集まって、あーでもないこーでもない、とワイワイ言いながら仕事をやるのは、それはそれでこうした時期だけの楽しい時間だったりもする。黙々とひとりで仕事を片付けて、早く上がった時間よりも、ね。


■2003.04.02 水

 生る事の意味、という、人にとっては永遠の思索のテーマがある。何にその意味を見つけ出すかと言えば、人それぞれだろう。
 多くの宗教では、生きているうちに成すことの善悪が重視される。その教義には「かくのごとく生きるべし」といろいろな事が書いてあるだろうから、そういうものを信じる人はそのように生きれば、まぁそうしたテーマには迷わずに生きられるのかも知れない。

 でも、自分のようにそれを持たない人たちはどうすればいいのだろう。
 生きる事の意味、という言葉にあまり過剰な反応はしない。自分の中にその規範が存在しないからだ。ただ、漠然と思うことはある。それは自分の「よりどころ」のようなものだけど、人に話す事も無いから漠然としたままで、あまり言葉にした事はない。でもこういう場がある事だし、その漠然としたものを、ちょっと指でなぞってみようと思った。


 人生で何を成したか…多くの人を救った、有名になった、巨万の富を築いた、虫も殺さずに生きた…ということは、生きる上で必要なことはあっても、人生の意味においては余り重要なことではない。重要なのはそこで何を感じたか、という、そのことだ。
 それは目に見える成果ではなく、目に見えない感情。傍目には映らず形としても残らない。でも、それこそが自分の中にずっと刻まれてゆく、それから自分が永遠に持ち続けることになる、自分自身にとって一番大切なものなのだと思う。

 その時どのような思いを抱いて行動したのか、ということは、その後に目に見える形や具体的な数字となって現れてくる成果や結果よりも重要なことだ。浦島太郎は亀を助けた。それが見返りを期待してのことか、それとも純粋に亀を助けたいという気持ちから生まれたことか。でも、そのどちらにしろ「亀を助けた」という、その結果に変わりはない。
 そして、亀にしてみれば、助けられた相手が浦島太郎だろうと他の誰であろうと、自分が子供達の手から逃れられればそれで良かったこと、かも知れないのだ。
 成した事の結果とは、時にそうして、成した本人にとって意外とクールな貌を見せたりする。なら、だからこそ、何かを成す時の自分の抱く感情にもっと目を向けられたら、と思う。どんなに素晴らしい成果を残したところで、その行動に伴う感情がひどく醜いものだったら、それは自分にとってどれほどの価値があることだろう。
 それに、そちらにもっと目を向けられるなら、人生で何かを成す事において、その結果が全て…ではなくなるだろう。
 結果としての失敗がそこに至る過程の全てまでを否定してしまう、ということは、ままあるけれど悲しいことだ。それを成す時に自分がどんな思いを抱いたか、ということに関心を持てるようになれば、結果が失敗でも、満足な成果が上がらずとも、その過程の中から自分自身が得られるものは、他の場合よりずっと多くなると思う。


 …何やら訳の判らない話になっているが、とにかく。
 生きているうちに成した事、それ自体に生きる事の意味がそれほどあるとは思わない。それは持ち続けられないものだ。どのような感情を魂に刻みながら生きてきたか。大切なのはそちらの方なのだと、そう思う。そして、そちらを大切にできるようになれば、行動や結果というのも、自然とそれに伴って良い方向に現れてくるものなのだ、と。

 「考えるよりまず行動しろ」 「行動で示せ」 「結果こそ全て」
 公の場での言動はどうあれ、本心の自分はそのどれにも属さない。誰かが1匹の蟻を踏みそうになって歩みを停めたとしたら、1匹の蟻の命を救ったというその結果を賞賛するよりも、そのために立ち停まったというその行為を称えるよりも、歩みを停めたその瞬間のその人の一瞬の心の揺れを、その人と共有できたらいいと思う。


■2003.04.07 月

 先週1週間で雪融けが一気に進んだ。まだ青さの見えない地面は乾いていて、昨日久しぶりに吹き始めたこの街らしい強い風に埃っぽさを加えていた。でも、土の上は何というのだろう。その上を歩くと何だかスポンジの上にいるような感じがする。表面だけは乾いているけれど、そのすぐ下の層には大量の水を含んでいる、そういう感触がする。
 樹々がその体内に水を巡らせ始めた。いや、樹々はもうずっと前からその季節を迎えているのだろうけれど、自分がその事に気付いたのは先週のことだ。
 近所にある白樺の木。根元から2メートル位の高さまで全ての枝が刈り払われている。その枝の切り口のひとつ。幹から10センチくらい突き出した枝の名残のその瑞々しい断面から、ポタリ、ポタリと水が滴っているのを見つけた時。先月末までは、そこから小さな「つらら」が垂れ下がっていた。でも今はもう、朝も凍ることなく、5秒間に一滴ほどのリズムで滴を落とし続けている。結構なペースだ。下に1日バケツを置いておいたら、どれくらい水が溜まるだろう。
 滴り落ちているのはその木が吸い上げた、地面のスポンジに大量に含まれた雪解け水。冬の乾燥を耐え抜いた白樺の木にとっては、お待ちかねの水だろう。まるでゴクゴクと音を立てて飲んでいるみたい。枝から滴る樹液を舐めたらどんな味がするだろう。子供の頃に試したことがあるあの味よりは、この時期の樹液は薄味なのだろうか。

 春になると生命の息吹を感じる、というけれど、人は春のどこにそれを感じるのだろう。陽射しなのか、風なのか。草の息吹なのか、春に咲く花なのか。蛙の声や嬉しそうな小鳥のさえずりなのか。人の営みの中に、なのか。それを全て含めて、なのか。
 自分自身に限っていうと、雪融けのこの季節。ゆるゆると巡り始める水に「生命の息吹」のようなものを感じているみたいだ。いや、それはおかしいことかもしれない。水は確かに生命を育むものではあるけれど、水そのものは生命ではないのに。

 けれど。

 …人は何をもってそれを「生命」と呼ぶのだろう。人にそういった事を訊くことはまず無いけれど、こういう事について人はそれぞれ自分なりの答えを持っているものだろうか。

 生命の定義…生物の条件、ってなんですか?

 これは明日以降のこの時間の自分への、質問。


■2003.04.09 水

 昼飯を終えて事務所に戻ると、今ではすっかり 「せんぱーい」 と呼ばれるようになってしまったかの後輩の保険外交員が来ていて、 「今日は新人さん連れてきました」 と。ほう、そちらもいよいよ 「先輩」 ねぇ。その先輩に紹介される形で、新人さんもやや緊張した笑顔で自己紹介。今はまだちょっと頬を紅らめてのご挨拶。
 「自分だってルーキーの時は…ねぇ」 と後輩を茶化す。 「え、そんな時ありましたっけ?」 と後輩がとぼける。それからあっ、と何か思い出して、そう、そういえば…と、自分の後輩の新人さんに 「この方が私の保険の説明、はじめて聞いてくれた第1号の方、なんですよ」 とこちらを指して言う。ああ、そうだった。彼女も最初の何日かは、今の彼女がしているように先輩の後をついて挨拶周りをしていたけれど、初めてここを単独で周る事になったその日。まだ誰にも保険の説明を持ちかけられない、と言う彼女に、 「じゃあ練習台になろうか」 と。そうして彼女にとって最初の説明相手、になったのが、そういえば自分だった。
 「あれで私、すごく勇気ついたんですよ、本当に」 と彼女が言う。まぁ、自分も知らずのうちに人の役に立っているものだ。でも、可笑しい。彼女にとって自分は記念すべきその最初の相手であり、それからしばらく後にわかったことだが、同じ学校で同じ学科の先輩でもあったのだ。
 「…なので、またお願いしますね」 彼女が自分の後輩の新人さんを指して言う。おいおい、そう来たか。 「よろしくお願いします」 新人の彼女もそう言って頭を下げる。…まぁ、いいか。 「はいはい、かわいい後輩の頼みだし。…ま、保険は間に合ってるけど」 そう言って笑う。彼女にとって第1号なのは間違いないが、顧客になった第1号という訳ではない。勧誘自体はずっとはぐらかし続けている。
 彼女もフフッと笑って 「わかってますよー。気が変わったら、で。…あ、これどうぞ」 そう言って会社名とネーム入りの「粗品」と書かれた包みをくれる。はいせんぱい、と。
 豪華な粗品の中身は小さなポーチに入った 「靴磨きセット」 だった。


■2003.04.10 木

 全くの偶然で出会った縁が、時に思いがけない繋がりを見せる。そう感じることがこれまでに何度もあった。転勤前の職場で採用されたばかりの時、自分には2人の同期がいた。男女ひとりづつ。彼の方は2歳、彼女の方は3歳年下で、それぞれが道内の全く別の街の出身だった。普通なら年齢も違えば出身も違うこの3人に接点などある訳が無い。でも、全くの偶然だったのか、何らかの繋がりだったのか。それは違った。
 彼は札幌の出身で、その家は自分が高卒後1年間札幌に住んでいた所と、ほんの家を数軒隔てただけのごく近い所にあった。もう既に何度か会っていたとしても不思議ではない。しかも同じく札幌に住む自分の従兄弟と、小・中学校が同じで、同じサッカー部に所属していた友人同士だった。
 彼女の方は自分が短大時代を過ごした街の、隣街の出身だった。短大時代に亡くなったひとりの友人がいる。彼女の出身が亡くなったその友人と同じで、その弟と同じ学年だったので、ひょっとしたらニュースくらいは聞いた事があるかと、ふと訊ねてみたことがあった。彼女はその事を良く知っていた。彼女は、その亡くなった彼の弟の、これまた同級生だったのだ。

 不思議なことに、これまでずっとそうだった。新しい土地に移り住んでも、そこで暮らす何年かのうちに必ず、自分の知っている誰かしら、何かしらと縁のある「誰か」に出会ってきた。そこで彼らに出会った、という偶然だけでも凄い確率なのに。でも、そういう「繋がり」が、時たまあるという事。そういうことは、自分は素直に信じられる。

 日中は暖かかったが、夜はまだまだ冷え込みがきつい。春はまだ行きつ戻りつ。早朝に見た白樺の枝の切り口からは、今日も短いつららが白く垂れ下がっていた。でも、夕方見た時には消えていて、その切り口からは再び樹液が滴り落ちていた。


■2003.04.20 日

 出張で先週はずっとこの街を離れていた。そうして久しぶりに帰ってきてみると、随分春らしくなったな、と、その変化に気付く。日陰にはまだ残っていた雪も、すっかり無くなってしまった。芝生の色が青味を帯びてきた。木々が芽吹き始めている、などなど。
 いや、この街を離れていたといっても、周っていたのは同じ北海道内。さほど遠い所に行っていたわけでもないので、春の進み具合もこの街とそれほどの差は無い。
 けれど。似たような春の景色の中にいても、やっぱり「春らしくなったなぁ」と感じることができる場所は、出張先の街ではなく、この街なのだ。それは多分、自分がこの街で冬を過ごしてきたから、なのだと思う。冬を過ごしていない土地の春の中にいても、その春に感じるものは、自分が冬を過ごした街で感じるものとは全く、別物だ。
 季節。その移り変わりを感じたり、観察するためには、定点が必要なのだと思う。動かずに見定める一点が。季節に限らない。移ろい続ける様々なものたちの動きや流れ、時間。それを見極めるために必要なことは、その場に佇むこと。そして、じっとして動かずにそこから世界を眺められる。そんな定点を持つことだ。自分の外にも、内にも。


■2003.04.21 月

 出張その他である程度の日数家を空ける時、普段パソコンで使っているアドレス宛に着信したメールは、携帯電話に転送するように設定をしていた。でも何かちょっと気持ちに引っかかるところがあって、先週の出張中はそれをしていなかった。
 引っ掛かった、というのは、相手がパソコンで送ってきたメールに対して携帯で返信を返す時に、ちょっと感じたこと。言葉をやりとりするツールが変わると、言葉そのものも変わってしまうような、ふとそんな事を思ったことがあった。
 パソコンでやり取りするメールと携帯でやり取りするそれとでは、単純に文字数だけ比べてみても、大きく違う。字の打ちやすさだって大きく違う。だから、あまり早く返すこと(携帯メールの欠点は、すぐに返信をしなければならないような気にさせられる事だ)にこだわって、パソコン宛に送られてきたメールに対して携帯で返信をしても、相手が送ってきた中身とこちらが返した中身が釣り合わないような、そんな気がしたのだ。年賀状を出した相手から携帯電話のメールで返信が来た時のような、相手はそんな感覚を抱いてるかも知れない、と。

 大事なのは気持ちと言葉なのだから、ツールによって言葉の重みが変わってしまう気がするのも可笑しなことかも知れない。でもツールによって言葉そのものは確かに変わる。少なくとも自分の場合は変わってしまう。
 パソコンで打つ文章と携帯で打つ文章は違う。携帯で何百字もある文章を打つ忍耐力は、自分には無い。それは不自然なほど、極端に簡潔な文章となる。また、キーボードで打つ文章と手書きの手紙の文章も、似てはいるけれど、やはり違う。文字で書き連ねる言葉と電話で話す言葉は違う。電話で交わす言葉と相手を前にして交わす言葉も、これまた違う。
 まぁ、ツールによって変わってしまうのは言葉そのものではなく、言葉が生まれる時の思考の「流れ」なのだろう。自分にとってはパソコンを使うこの机の前もまた「定点」。
 むやみに動かしたり、持ち運んだりしない方が、自分にとってはいいことなのかも知れない。
 

■2003.04.22 火

 会う人毎に「おおっ」と驚かれるのは、頭の衣替えをしたせい。先週の出張に出る前の日曜日、前髪が目にかかるくらいの長さだった髪を、ばっさりと短くした。丸刈りではない。形としては「GIカット」のような感じなのだけれど、床屋で頼んだのは「短めのスポーツ刈り」。そう頼むと床屋さんはこちらのその現在の髪の長さを見ながら「本当にいいんですか」という感じの表情で、「ええと、どの位短くしましょう?」と訊いてくる。「思いっ切り短くていいよ。春先はすぐに伸びるから」と、そう答える。「じゃあ、横と後ろはどの位にしましょう?」床屋さんが更に訊いてくる。
 どの位…って。短くなれば、あとはお任せでいいんだけど。まぁ、あまり細かい注文は無い。でも何か言わないと始まりそうもないので、こう答えた。「じゃ、横と後ろバリカン。5ミリで」 …うん。我ながら男らしい答えだ。
 という訳で、自分にしてみればもうこの髪形になって1週間以上になるのだが、1週間ぶりに会う人達にとっては初めて見る髪形。いちいち何か言われ、それに対して「いや、春だし」などと答え続けていた。皆が見慣れる明日辺りまではこの状態が続くのだろう。
 そういえば今日初めてこの髪形の自分を見たある人に、「横から見るとイチローに似てる」と言われた。髪の長さに応じて色々な人に「…に似てる」と言われるけれど、イチローは初めてだ。でも、自分では何とも言えない。
 他にも人の頭を見て「…春だなぁ」だとか「…失恋した?」だとか。あと、今回に限らず髪を短くしてくると「…何か悪いことしたの?」と訊いてくる人が必ず何人かいるのはどうしてだろう。

 この職場にはかつての悪ガキ達が多いのかも知れない。


■2003.04.25 金

 ブルドーザで積み上げられ、冬の終わりには5メートルほどの高さだった雪山も、今ではちょうど自分の膝下位の高さの、泥だらけの小さな盛り上がりと化している。空き地の砂利の上。泥の隙間から、まだ僅かに雪が覗いている。そのかつての雪山から融け出した水が、近くの側溝まで細い川となって流れている。流れ落ちるところでちょっとだけ、せせらぎのような音がする。キョロキョロキョロ…と、何者かが笑うような。

 大分前に書いた、生命の条件について。何をもってそれを生命と定義付けるのか。自分はあまり難しい定義は知らない。自分が判るのは、もっと単純なこと。生命の条件。それはその中に「水が流れている」ということだと思う。全ての生命はその体内に水を巡らせ、命を終える時にはその流れを停める。単純すぎるかも知れないが、そう考えるのが自分にとっては一番判りやすい。
 体内に水を巡らせる存在、それが生命。ただし、循環式浴槽や上下水道を張り巡らせた街などは、当然これには含まれない。…じゃあ、海空陸をわたる水の循環は。こちらはまぁ、この定義に含んでもよさそうな気がする。惑星1個をひとつの生命とみなすことになるけれど、それもまた水を巡らせる存在。遥かにダイナミックな生命、といえるかも知れない。

 昔、「はてしない物語」に出ていた全身が岩石でできた怪物を見た時に感じた違和感。自分はそのキャラクターと生命とを、どうしても結びつけることができなかった。感覚的に。その理由が、今になってようやく判ったような気がする。彼は岩。その体内に水は巡っていない。その事に対する違和感、だったのだろう。きっと。


■2003.04.26 土

 今日1日何があったか、というよりも、この時間の頭の中は、昨日のこの時間の思考の流れをそのまま引き継いでいるようで。

 もし「魂」というものを形として捉えるなら、それはきっと「水」みたいなものだと思う。命がある間その身に宿り続け、終えた後には出て行くもの。似てるといえば似ている。
 ただ、本当に似ていると感じることはそんなことでは無く。ここから先に書くことは、他の人が抱いているそれに対する考え方とは、ちょっと違うかも知れない。でもまぁ、それは人が信じているものに対してどうこう言うつもりではなく、自分のため。自分自身の物事の感じ方に対して、自分自身が誠実であるために書いていること。以下はそういうジャンルについて、今現在の自分が感じていることについて。

 隔てるものが無くなれば、水はひとつに纏まる。かつて何に宿る水だったか、なんて事は関係なくひとつになる。もし魂というものが本当にあるとしたら、それもまた水と同じようなものだと思う。人の魂にも虫の魂にも、草花の魂にも。魂のレベルに境目などないのだろうと。
 死後、この世界とは全く異なる世界へ行く、という話も、自分は信じていない。信じる宗教によって行く世界が異なる、そういう話も信じてはいない。それもまた水と同じようなもので、全く別の次元の世界へ行ってしまうのではなく、この世界を巡るものに戻ってゆく、それだけなのだと思う。湿り気を帯びた風のように、雨や雪のように、川の流れのように。また何物かに宿って生命と呼ばれるものになるまで、人々の傍を巡り続ける。
 そう。それはずっと遠くへ行ってしまうのではない。今を生きている人々。そのごく身近なところを巡り続けているのだ。この世界が水に満たされた世界だということと同じくらい、この世界は魂に満たされた世界、なのだろう。
 ひょっとしたら魂の川、魂の海、というものも存在しているのかも知れない。かつて「あなた」「わたし」だった魂が、分け隔てなく集う海のようなところ。そこでは、以前は形も大きさもバラバラだった全ての魂が、まるで組み上がったパズルのようにぴったりとひとつに収まっている。そして、そこからやがて再び「あなた」「わたし」へと分かれてゆく、そんな海のような場所があるのかも知れない。

 とにかく。生きている間は別々のかたち。姿形も、肌の色も、ものの考え方も。
 でも別々なのは生きている間だけの、それ全体から見ればごく一瞬の間だけで、それ以前とそれ以後は決まったかたちも持たず、元々は「ひとつ」なのだと。その一部がつかの間あるものに宿った形が「生命」なのだと。

 今の自分が感じているのはそんな所で、今の自分の感覚を今の自分は信じている。
 まぁ、身の回りに水が溢れているのと同じくらい、常日頃生命の源に包まれて生きているんだと考えれば、生きているってことは人にとって、それほど寂しいものではないのだと思う。


■2003.04.27 日

 休日。車のタイヤがまだ冬タイヤのままなので、タイヤ交換をしようか迷う。でも何年前だっただろう。連休中に夏タイヤで道東方面へ出掛けた時に大雪に遭った事があって、それ以降この時期のタイヤ交換には慎重になっている。ま、今年は今のところ道東方面に出掛ける予定はないのだけれど、峠越えの可能性はあるので、結局そのままに。
 月が三日月だったので暦(釣具屋で売っている潮汐表)を見ると、5月1日が新月だった。新月ということは、海は大潮。大潮ということは潮まわりがいい。潮まわりがいいということは魚釣りにはもってこい。29日から連休となる。ということは是非釣りに行かなくては。ということで空き時間に釣具屋へ。色々と買い込んでくる。
 5月1日に釣りに行く、といっても、その日に海で釣り糸を垂れている時間だけが「釣り」なのではない。こうして思い立った時。買い物をしている時。仕掛けづくりをしている時、釣り場に向かう時、それをしながら心のどこかワクワクしている時。釣った後の始末をしてる時。その全てが自分にとっては「釣り」の時間だ。実際に「釣り」をしている時間なんて、その中のごく僅か。
 友人が集まって行く時以外、海釣りは実家を拠点にして行く事が多い。基本的にキャッチアンドリリースの釣りはしない。育った環境からか、釣り=食べる、という事が密接に結びついていて、でも、釣ってきたものを自分ひとりの部屋でさばいてどうのこうの、というのも面倒くさい。なので実家を拠点に出撃して、釣った魚は実家に持ち帰る、というパターンが多い。何にしても地元の海だから、そこが一番自分に馴染んでいる。
 連休間。定年を迎え、実家で閑を持て余している師匠(父親ともいう)を誘って夜釣りにでもいこうかと思う。徹夜で。


■2003.04.28 月

 職場はもう連休態勢。特に大きなイベントもなく、忙しくもなく。電話がこない、というのが何よりも素敵な1日だった。外では膨らみを増した桜の蕾が赤みを帯びている。あと数日だろう。遠くの山並みにはまだまだ残雪。ここからでは見えないけれど、残雪の後、山肌に白の彩りを添えるのがコブシの花。コブシはもう咲いているのだろうか。

 ふと思った。コブシの花が自分の中で、いつの間に「風景」になってしまったのだろう。
 桜とコブシの花に対する距離感が、以前田舎町に住んでいた時と今住んでいるこの街とでは、正反対になっている。この街では身近なところに桜があり、コブシは遠くに望むだけ。でも、前は違った。時折家の庭に植えられているものを除けば、ポツポツと住宅があるだけの町に植えられる桜もなく、それは意外と遠いとこで咲いている花だった。逆に、至るとこに山林はあったので、コブシの花はごくごく身近なところで咲いていた。コブシの花の咲いている向きが、はっきりと判るくらいに。
 コブシの花が立って咲いていると、その年の風は穏やか。横向きに咲いていると、その年は風が強い1年になる。向きがバラバラの時は、まぁそれなりの風の1年になる…のだという。
 この街のコブシの花はどちら向きに咲いているのだろう。毎年横向きに咲いているのだろうか。あまり風の街、というイメージはないけれど、この街は自分にとって、今まで住んだどの街よりも風が強い街だ。
 これからの季節。通勤に使っている自転車を職場に置いていて、それが帰りの時間までちゃんと立っている事は珍しい。大抵は帰りの時間までに、この街の強い風に倒されている。買って何年も経っていないのに籠はもうボコボコ。無残な状態になってしまっているのだ。

 帰ってひと息ついてから、先ほどまでずっと、昨日買ってきた釣り針の「糸結び」をしていた。1時間ほどかけて、釣針1袋、50本の細かい作業。針をずっと押さえ続けていた右手の人差し指の第1間接辺りの横腹が、紫色になってしまっている。
 針に糸を巻き付けた後、右手で針を押さえ、左手は糸の片端を持ち、そして糸のもう片端は歯で抑えて引っ張る。そんな作業。ついでに糸の余分な部分も、自分は歯で噛み切ってしまう。糸切り歯とはよく言ったもの。
 これは父親がそうしていた事を真似て自然とそうなったもなので、こういう時にハサミを使う、という事が、自分の場合はあまり習慣づいていない。でも、子供の頃はそれをしていると、母親に「歯が減るからやめなさい」とよく言われていた。
 鏡をみると確かに、ほんの僅かではあるけれど、その時によく使う右側の糸切り歯の方が、左側よりも擦減っている。でもまぁいいだろう。使われずに綺麗な形のままで取っておくことがいいことだとは思わない。歯は道具だ。使えば減るのが、自然なこと。


■2003.04.29 火

 今日から子供の日まで連休入り。仕事着をクリーニングに出した後、その足でこの街の友人ひとりと日本海までドライブ。目的は特になし。飛び石の休日だからだろうか。道行く車はそれほど多くもない。夜になって携帯電話に姉貴からのメールが届く。明日実家に帰るから来い、と。電話する。姪っ子が自分と遊びたいとうるさいらしい。はあ。
 連休間は車に乗ることが多くなるので、その中で聞くCD作りをしている。今はそのCDの焼き付け作業をしながら書いている最中。借り物を含めて普段は余り聞かないCDばかり7枚分の音楽を1枚に詰め込む。もちろんMP3形式での録音で、車のオーディオもそれに対応している。1枚のCDに100曲以上は入るので、ひとつ作っておくとしばらくは持つ。車の中では、普段あまり聞かない曲ばかり、無作為に詰め込んで作ったこうしたCDを、更にランダム再生しながら聞くのが好きだ。ばらばらに流れるのは、ラジオで流れる音楽と同じ。でも、途中で曲がフェードアウトしていったり、トークに寸断される事もない分、こちらの方がいい。今作っているのは少し古めの邦楽ばかり、110曲ほど詰め込んだもの。
 天気予報を見る。明日の札幌は荒れ模様。でも、実家方面は天気が良さそうだ。連休になると自然に足は天気の良い方、良い方へと向かってしまう事が多い。仲間内で、特にあてもなくどこか出掛けよう、という時もそうだ。そういう時、目的地の天候を気にするのではなく、天気で行き先…車を走らせるおおよその方角…が決まってしまう。ここは一応「道央」と呼ばれるところなので、そういう点においてはとても行動しやすい場所だ。どの方角にも、ここから伸びる道がある。
 道内を色々とあちこち走ってきて、大体の「天気の変わり目」になる場所。そういう場所がある、ということが、だんだんと判ってきた。行政の線引きにはとらわれない、地図にも載っていない「天気の変わり目」の線。そういうものがあると思う。こちらが雨でも、その線を越えた向こうはひょっとしたら晴れかも知れない、と。そういう希望を持てる、そんな「線」。

 と、こうしているうちにCDが焼き上がった。チン。

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